中古ソフト問題・東京訴訟 「被告側第五準備書面」
平成10年(ワ)第22568号
原 告 株式会社 上 昇 被 告 株式会社 エニックス 平成11年3月31日 被告代理人 弁 護 士 牧 野 利 秋 同 濱 野 英 夫 同 山 崎 龍 一 同 伊 藤 真
東京地方裁判所 民事第四六部B係 御 中
原告第4、第5準備書面(いずれも平成11年3月16日付)記載の主張に対し、以下のとおり再反論を行う。
第一、原告第4準備書面の(著作権法上の「映画の著作物」概念の関係)について
一、原告は、連続影像収録物であるだけでは映画の著作物とはいえない、また、ゲームソフトにはそもそも「固定された」連続影像が収録されていない旨主張している。そして前者の論拠として三沢市映画事件判決を引用するがこの点に対する反論は、すでに被告準備書面(二)22、23頁において述べたとおりである。 また、映画著作物の要件としての「固定」についても同準備書面15ないし18頁において述べたとおりである。 「固定」とは、要するに映画的表現が媒体である「物」に収められて保存され、必要なときに再生できる状態をさすのであって、影像がどのような組み合わせで、どの順番で常に同じように再現するといった表現内容の固定制をいうわけではない。
二、また、原告は「物」に規定されるべきものは「映画の構成要素」ではなく、著作者の思想又は感情を創作的に表現した連続影像群である。」旨主張する。しかしながら、本件ゲームソフトにおいても著作者の思想・感情が創作的に表現された連続影像がCD-ROMに固定されていることは今さらいうまでもないほど当然のことである。
三、次に、原告は、映画の「構成要素がたとえ固定されていても、プレーヤーの操作(……)で変化する連続影像は到底「物」に固定されているとは言えない」旨主張する。 しかしながら、ゲームソフトにおいて、いかなるレバー操作によりいかなる影像の変化を生じるかはすべてROM中のプログラムにより設定されているのであるから、物に固定されているとの要件を満たすことはパックマン・シェアウェア事件判決が説くとおりである。
第二、(パックマン事件等裁判例の射程の関係)について
一、原告は、「映画の効果」とは、影像の連続により制作者の意図を伝達すること、すなわち「影像が動きをもって見える」では足らず、制作者の意図を伝達するという有意性のある影像の連続を要する旨主張する。 しかしながら、本件各ゲームソフトが、完成された作品として公表されているということは、それが個性に富んだ遊技の対象を提供するという制作者の意図を伝達する影像的表現であるからにほかならない。本件各ゲームソフトにおいてそのような制作者の意図が伝達されないものならば、誰もこれを購入しようとする者はいなくなるであろう。影像の連続を通して制作者の意図が伝達されるということは、本件ゲームソフトにとっては余りに当然の事である。 なお、平成11年3月18日東京高裁判決(「三国志V」事件)はシミュレーションゲームソフトについて、ディスプレイ上影像の流れを楽しむことを主眼とするものではないことを理由に、映画の著作物に該当しない旨判示しているが、本件各ゲームソフトは、目録一、のものがいわゆるロールプレイングゲーム、目録二、のものがダンスゲームであって、いずれも画面中における影像がリアルな動きを持っていて、正に影像の流れを楽しむことに主眼があるゲームソフトである。したがって「三国志V」事件とは前提となる事実が大いに異なっている。
二、また、原告は映画は常に同一の影像表現によって思想・感情の伝達がなされることに意味があり、その固定された影像表現によって一定不変の思想感情が伝達される点に他の著作物と異なる「映画の著作物」が存在する。ユーザーの操作を中心とするゲームソフトは映画著作物の固定概念とは相容れない、旨主張する。 しかしながら、映画著作物の概念からインタラクティブ性を排除することは、固定要件の解釈として不必要なことであることは、既に述べたとおりであるし、表現形式の解釈としても不必要なことである。映画著作物の概念をそのように狭く解さなくてはならない根拠も理由も明かでない。
第三、(映画の著作物の要件、プログラムの著作物との関係など)について
一、原告は、テレビの生放送と録画放送との差異は、前者は上映された時点で初めて具体的な連続影像群が特定されるのに対し、後者は上映される前から再現される連続影像群が特定されている点にある、上映したときに初めて連続影像群が特定されるような影像表現を映画著作物から除外するために固定制の要件を設けたものである、ビデオゲームは上映したときに初めて連続影像群が特定されるものであるから映画著作物から除かれる、という趣旨の主張をしている。 しかしながら、固定制の要件は、先に述べたように、影像を物である媒体に収めて保存し、再生可能とするだけのことであるから、連続影像群がいつ特定するかということとは関わりがない。原告の右の主張は、「固定」の意味に連続影像の表現内容まで含めて解釈しようとする独自の考え方に由来する。しかしこのような考え方が当たらないことはすでに述べたとおりである。
二、つぎに、原告は、被告がいう「編集行為」は、素材である影像著作物等を「映画の著作物」に昇華させるために加えられる編集行為とは質的に異なるものである、映画著作物は、いつ、どこで、誰が、何をしながらその表現を鑑賞しようと、同じ連続影像群を知覚できるように、どれどれの連続影像群を、どの組み合わせで、どの順番で、どの長さで知覚させるかを一義的に定めるという編集が必要である、被告のいう「編集行為」によって構成された「全体として一つのまとまりのある」表現形式というのは、インタラクティブ著作物といった新しい範疇の視聴覚著作物に該当するかどうかはともかく、映画著作物に含ましめるには無理がある、と主張する。 しかしながら、被告がいう「編集行為」が原告のいう映画の編集行為と質的に異なるとするのは、原告が映画著作物からインタラクティブ性を除外した独自の映画概念を立てていることによるものである。インタラクティブ性を伴う影像表現であっても、映画の著作物に他ならないことは既に各所において述べたとおりである。
第四、原告第五準備書面(著作権法26条の頒布権は消尽しないとの主張)について
一、原告は、BBS最高裁判決はわが国の特許法に明文規定がないのみ消尽を認めており、明文規定がないからというだけでは余りに形式的な解釈態度である旨主張する。 しかし被告は明文規定がない、ということを消尽しないことの唯一の理由にしているわけではない。現在における立法の動向や現行著作権法における規定相互の構造、条約との関係などの中において明文規定がないことを取り上げているのである。 特許法における譲渡の場合には、大正元年の大審院判決以来消尽が社会の通念とされてきた。しかしながら著作権の場合には多くの規定が権利者と著作物利用者との間における利害調整の結果として設けられてきた。今回の第一小委「審議のまとめ」を見ても明らかなように社会の各分野における様々な意見の調整をはかりながら、一つの線引きとして著作権法上の規定が設けられる傾向が強いのである。そのような立法状況の中において、頒布権消尽の規定が置かれていないということは、かなりはっきりとそこに立法意図が示されているものとみなければならないというべきであろう。
二、つぎに原告は「WIPO新条約における頒布権の扱いについては国際消尽をどの範囲で認めるかだけが各国に委ねられているに過ぎず、国内消尽を否定するような考えは全くない」と主張する。 同条役は頒布権について次のように規定している。 「(1)文学的及び美術的著作物の著作者は、販売又はその他の所有権の移転により、その著作物の原作品又は複製物を公衆に利用可能にすることを許諾する排他的権利を享有する。 (2)この条約のいかなる規定も、著作物の原作品又はその複製物について、著作者の許諾を得て最初に販売又はその他の所有権の移転が行われた後に(1)の権利が消尽する条件を締約国が定める自由に、影響を与えるものではない。」 (1)は頒布権の基本原則について規定し、(2)は頒布権が消尽する条件を締約国が自由に定めうることを規定したものである。 すなわち(2)は消尽する場合にはその条件を自由に定めることができるとしたものであって、(1)の原則的規定だけを置き、頒布権が消尽しないままにしておくことも許されたものと解すべきである(甲22号証の57頁 木谷発言参照)。 また、原告は、ベルヌ条約上映画著作物の頒布権は第一頒布と解すべきである旨主張する。しかしながら、同条約は著作者の権利を効果的かつ統一的に保護することを目的とするものであって(条約前文参照)、国内法で条約規定を下廻る保護しか与えない場合には条約に抵触することになるが、条約規定を上廻る保護を与えることは条約との抵触は生じないものというべきである。したがって、たとえ条約に定める頒布権が第一頒布であっても、国内法において消尽しない頒布権を規定することは一向に差し支えないのである。
第五、(本件ゲームソフトが頒布権の認められる映画の著作物の著作物であるという主張)について
一、原告は「中古ソフトを禁圧しようとするソフトメーカーに決定的に欠けていると思われるのはユーザーの視点である」と述べる。 しかしながら、ゲームソフトの中古販売の問題において、被告が頒布権の対象にしているのはあくまでもゲームソフトを「公衆に譲渡」している中古販売業者であって、ユーザーではない。 また原告は、頒布権によって中古ゲームソフトの流通が妨げられ、ユーザーは利用を終えた複製物を処分しにくくなる、高いソフトを買うしか選択の余地がなくなってしまう、などとも述べている。 しかしながら頒布権に基づく権利者の許諾に基づいて中古ソフトを販売することは何ら妨げられないのであって、このような流通上のルールに従うならば、著作権法に基づく適正な流通秩序が形成されることになる。現に被告においては、そのような許諾を用意し、中古ソフト販売を希望する販売店に対しては、被告の許諾を受けることにより中古ソフト販売ができる旨のお知らせをしている状況にある。 このような流通秩序が形成されるならばユーザーが利用を終えたゲームソフトの処分に困るというような事もないことになる。 原告はユーザーが高いゲームソフトを買うしか選択の余地がなくなる、というけれども、許諾料を支払って中古販売が行われる場合であっても、許諾料の額には自ら基準ができるであろうし、中古販売業者は、買取価格や販売価格を自ら決めることができるのであるから、適正利潤の範囲にとどまりさえすれば、ユーザーに対して許諾料のすべてを転嫁しなくてもすむはずなのである。
二、原告は、中古品として個人的利用に供すべく市場に出されたことをもって公衆性のある利用とはいえない旨主張する。 しかしながら、ゲームソフトの頒布が公衆性を有する著作物利用の一形態であるということは、頒布の対象が「公衆」であることをいうのである。ゲームソフトを楽しむうえで決定的に重要性を有するのは、物としての媒体ではなくゲーム影像である。その意味において、頒布の対象は著作物たるゲーム影像である。CD-ROMが公衆に頒布される事を著作権の視点からみるならば、それは媒体の頒布に伴う映画著作物の頒布に他ならない。この点において公衆性のある放送やその他の公衆送信と全く同列の事柄であるということができる。つまり著作権法は、影像の形態で表現される著作物については公衆性を要件としてその伝達、頒布に付き著作者に専有権限を付与しているものと考えることができるのである。 フィルム配給権を立法動機とした映画著作物の頒布権が、転々流通する形態の映画著作物についても適用されることの一つの根拠がここにある。
三、原告は、一個の複製物が中古市場を通じて何回か利用されることになるとしても、初めから当然予測しておくべきである旨主張する。 しかしながら、著作権法が、著作者に対し、著作物の複製(およびその第一頒布)という利用について専有権限を付与したほかに、複製物の第一頒布後における公衆性を伴う利用(上演、演奏、送信、上映、頒布、口述、貸与)についても専有権限を付与しているのは、後者が前者において予定された利用の範囲を越えるものとして、そこに新たな著作者の保護利益を認めたからにほかならない。 中古ゲームソフト販売も、これと同様な意味において、当初の複製および第一頒布についての権利をもってしてはカバーしきれない著作者の保護利益が見出されるのである。 中古販売によってもたらされるゲームソフトの新たな享受機会の出現は、そこから生じる利用利益をすべて中古販売業者のみに帰属させるべきではなく、著作物にも配分することが公平に適う所以である。
四、上映権侵害を前提とする場合にのみ頒布権を認めるべきとする学説に対する被告の反論の捉え方について、原告は混乱している。「公の上映」は、転々流通する形態のゲームソフトについても生じる場合があるのであるから、これらについて上映権侵害を前提とするものであるかそうでないかを判別することは実際上困難である。したがって、上映権侵害を前提とするか否かをもって消尽の有無の判断基準とすることは明確な基準として用いえないというのが、被告の論旨である。
第六、(消尽論やファーストセールドクトリンをわが著作権法には適用しないという主張)について
一、原告は、「物の所有者にとっても有用なのは物自体というより、物のもたらす効用であるという点では特許製品であると著作物製品だろうと異ならない)と主張する。 しかしながら、特許製品においては正に「物のもたらす効用」が有用なのに対し、著作物の複製品においては物である媒体がもたらす効用が有用なのではなくて、媒体に収められた著作物すなわち思想感情の表見物が有用なのである。 特許権が保護の対象とするのは、発明という技術的思想である。この技術的思想は、それが物に対して実施される場合、実施された個々の製品自体の中に化体されることによって初めて具体化され、その個々の製品の効用を高める。それによってその個々の製品自体の価値もまた高まり、そのような価値が付加された物としての個々の製品が流通におかれるのである。ここにおいて、発明における技術的思想は、個々の製品の内に物と一体不可分のものとしてその物の属性となっているのであり、個々の製品単位においてみれば、その物のうちにおいて用い尽くされているということができる。その物を使用・収益・処分の対象としているのである。 これに対し、著作権が保護の対象とするのは、著作物という思想感情の表現である。著作物の複製物にあっては、媒体である有体物は著作物を指示しているだけのものにすぎず、著作物の担う有用性、鑑賞性はあくまでも思想感情の表現における有用性、鑑賞性がもたらしているものであって、物と著作物とは可分的であり、両者が分離されるとき(例えば媒体からプログラムが消失してしまったとき)は物自体は殆ど価値を失ってしまうことになるのであり、媒体のうちに著作権が用い尽くされているということはできない。 このような特許製品と著作物の複製品との性質上の差異は、前者が所有権法秩序のうちにその命運を委ねることも許されるのに対し、後者についてはあくまでも所有権秩序の外にあって独自の存在を主張し続けることになるのである。 このような著作物の特質が、その複製物の第一頒布後における流通過程においても、その利用態様に応じて常に各種の支分権を生じさせることになっているわけである。したがって、これについてただちに所有権を中心とした流通保護の原則を適用するときは、著作者の利益が不当に切り捨てされる結果となりかねないことになる。
|